始まりは、30年前のダム反対運動だった

美山町の北東にある、関西で最大規模の原生林が残る、芦生の森。現在の正式名称は「芦生研究林」といい、京都大学が地元より借受け、管理・運営しています。

豊かな動植物の生態系を育んでいるこの森では、30年ほど前、ダム建設の計画がありました。原子力発電者の余剰電力を蓄積するための、関西電力の揚水発電ダムの計画です。「自然が豊かでもお金にならないが、ダムはお金になる」。それが、ダム建設賛成派の声でした。

町のほとんどが賛成する中で、地元の芦生集落だけは、森を守り、森とともに生きていくことを選びました。ダム反対運動を展開した「芦生の自然を守り生かす会」には、芦生集落の人たちだけでなく、京都大学の学生(芦生ゼミ)や京都・大阪の都市の住民も数多く参加。「自然を守り生かす」という主張は、世論の支持を得て、ダム計画は中止されることになっていきました。

地域資源を活かしたチャレンジで、活気ある集落へ

このダム反対運動のリーダーだったのが、芦生集落の最も奥にある家に住んでいた井栗登(故人)。集落の人たちとともに、1963年に「芦生なめこ生産組合」を興し、なめこや山菜の加工食品の販売を始めます。

「海外からの安価な材木が流入する中、これまでのように林業だけでは、食べていけないかもしれない」。そんな集落の課題を解決するために、興した事業でした。もともとあった地域資源を活かしながら、地域の経済基盤をつくっていくことに、井栗はチャレンジしていたのです。

最も源流に近く、自然は豊かだけれど不便な場所にある芦生集落は、美山町の中で最初に消滅してもおかしくなかった集落。しかし、チャレンジをする中で、町でも最も活気のある集落となりました。芦生を訪れる人たちは、原生林の美しさだけでなく、小さな洗濯物がたなびき、子どもたちの声が響きわたる麓の集落の様子にも感動していたものです。

俺らは、芦生の森をあきらめないで挑戦を受け継いでいく

それから年月が経ったいま、美山町全体で過疎化高齢化が進み、芦生集落でも、かつての活気は失っています。それでも、「自然を守り生かす」という精神は、何人かの挑戦者に受け継がれました。

野生復帰計画の初代社長である井栗秀直は、井栗登の次男。ダムに反対する父の背中を見ながら育ってきた井栗は、自らが育ってきた芦生の豊かさを次世代に伝えていくために、2004年にNPO芦生自然学校を立ち上げました。以来、子ども向けの自然体験事業を実施し続けています。

大野安彦は、ダム反対運動の中心メンバー。江和集落の住民でありながらダム反対の立場をとり、集落の中で孤立する中、反対運動を続けた大野。中止がほぼ決定したころ、郵便局員をやめ、農業体験をしながら都市の人に田舎の魅力を知ってもらう、観光農園江和ランドを立ち上げました。

大阪出身の藤原誉は、大学卒業後に、江和と芦生の中間に位置する田歌集落へ移住。2003年にスローフードとアウトドアのお店である田歌社を立ち上げま、永続可能な自給自足的なライフスタイルを、多くの人に伝えています。

反対運動を行っていた京都大学・芦生ゼミOBとして、芦生の原生林を駆け巡っていた鹿取悦子は、島根大学の助手を退職して、美山町へ移住。江和ランドへ就職し、子育てをしながら、狩猟ママとしても活動中です。

学生の時から、芦生の森を訪れていた青田真樹は、これまでの取り組みに共感し、2014年に野生復帰計画の立ち上げへと参画。2016年には、代表取締役社長に就任しました。それぞれの挑戦者が連携し、「自然を守り生かす挑戦」を、加速させていこうとしています。

「このまま、この地域をあきらめない、終わらせない」という想いで、先人たちの挑戦を受け継ぎながら、芦生の森の麓で、今も活動を続けています。



  美山と芦生の風景